「不登校」という言葉にあるメッセージ
不登校という文字には、登校を反対にした意味合いがあります(当たり前ですが)。
この「不」にネガティブなイメージを持ってしまうのは私だけでしょうか?
「不」のつく漢字で調べると、「不正」「不快」「不利」「不当」「不安」「不信感」、、、やっぱり、ネガティブな意味合いが多いです。
そうなると「不登校」も同じようにネガティブな言葉に聞こえます。
実際にネガティブな状態だろうという声も聞こえてきます。
確かに、学校は登校することが当たり前という文化の中では、登校していないことは異常事態で、おかしなことだと言えるのかもしれません。
ですが、学校に行くことは本当に当たり前なのでしょうか?
少し前提から変えて考えてみた時、当たり前ではなくなります。
例えば学校というものがない時代には、当然学校に行くこともなかったでしょうし、それが問題になることもないです。
学校があっても、簡単に通えるような国や地域もあります。学校に行ける方が珍しいという場合もあるでしょう。
こう考えると学校に行けないことが問題になる、時代や文化があるけれど、必ず問題とも言い切れないということです。
要するに、「問題は個人の中にあるのではなく、社会や文化の仕組みにある」という見方もできるわけです。
とはいえ、今の日本では「不登校」は問題視されています。
登校するためにはどうすればいいか、そういう前提で考えてしまいます。
しかし、先ほどの考えに立てば、登校しなくても問題にならない社会や仕組みができれば、不登校は問題にならないのではないでしょうか?
例えば、不登校であっても、学習が保障されること、健康的な身体づくりができること、対人関係が育まれること、さまざまな体験に触れられること、そういったことが守られていれば、問題ないのではないでしょうか。
実際に、コロナ禍以降、オンラインでの対応は進んでいますし、通信制の学校もすごい勢いで増えています。
学習のスタイルや学びたいことの多様化も進んでおり、むしろ学校以外での体験を重要視することも増えているのではないでしょうか。
こうなると、不登校を問題であると位置付けることが、ナンセンスになってくる時代がいずれくるのかもしれません。
今はまだ、不登校であることにネガティブなイメージはあり、それに苦しんでいる人もたくさんいます。
しかし、その苦しいと感じさせられる背景が存在しており、それは個人のせいではないのです。
私たちは、その苦しさについての語りを聴き、その語りにはどんな背景があり、どんな社会的な物語を背負っているのかを、さらに聞いていきます。
そして一緒に考えます。
いつか「不登校」という言葉にあるメッセージを
今苦しんでいる人や、それを支えようと懸命に活動している人たちと声を合わせて、変えていきたいと思っています。
一緒に変えたい、変わりたいという人を募集しています。

